ー神々の記憶をたどる旅のはじまりー


空から神々の国、出雲へ
早朝の羽田空港。まだ眠たげな空を離れ、7時10分発の飛行機に乗る。およそ1時間半の空の旅。窓の下には宍道湖の輝きが見え、やがて出雲縁結び空港に降り立つ。
空港でレンタカーを借り柔らかな光をまとった島根半島の山並みを右手に、ハンドルを握りながら走り出す。この不思議な地形を眺めていると、国引き神話の一節が自然と頭に浮かぶ。

息づく神話の気配
子どものころに読んだ「因幡の白兎」や「ヤマタノオロチ」。遠い昔の空想の世界と思っていた物語が、実はこの土地に息づいているかもしれない。そんな思いを胸に、古代出雲の旅が静かに始まった。

常識を覆した遺跡たち
「古事記」や「日本書紀」に描かれる神々の舞台。天つ神たちは葦原中国(あしはらのなかつくに)とよんだ。その中心にあったとされるのが、古代出雲。けれども長い間、神話の世界はあくまで”架空の物語”として扱われてきた。
その常識を覆したのが、1984年の荒神谷遺跡の大発見だった。358本の銅剣、16本の銅戈、6個の銅鐸。その銅剣の数は、それまで全国で見つかっていた総数を上回っていた。
さらに12年後、加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が出土した。これほどの祭祀具が一地域に集中することなど、それまでは考えられなかった。神話に描かれた「巨大な出雲国」が実在したのではないか。そう思わせる発見だった。

巨大神殿は実在していた
そして2000年、出雲大社の境内から、巨木を3本束ねた直径3メートルにもなる柱が見つかった。かつて出雲大社本殿は驚くべき大型建築として実在していた。古代出雲の伝承、物語は「語り継がれる記憶」から「確かな歴史」へと変わっていく。

神話の舞台、稲佐の浜へ
旅の最初に訪れたのは、空港から出雲大社を過ぎ車で6分行った西の海岸にある稲佐の浜。神在月に神様が最初に降り立つ場所と言われ、出雲神話の舞台として知られている。
高天原からの使者、武甕槌神(タケミカヅチ)がこの浜に降り立ち、大国主命、そして子の建御名方(タケミナカタ)と事代主命(コトシロヌシ)に国を明け渡すように迫ったと伝えられる。

「国譲り」という言葉は記紀では使われていない
いま立つ浜辺は、そんな神々の対話が交わされた場所。大国主命は武甕槌命に追い詰められて降伏する。「この葦原中国は、お言葉通りにことごとく天つ神に献(たてまつ)ることにいたそう」と述べ、支配していた国を差し出している。
実は「国譲り」という言葉は日本書紀、古事記どちらにも使われていない。今は静かなこの浜で、もしかしたら壮絶な戦いがあったのかも知れない。出雲制圧神話として。

海に浮かぶ弁天島
その浜に、ぽつりと佇む小島がある。地元の人々から「べんてんさん」と呼ばれ親しまれている弁天島だ。かつてはその名のとおり弁財天を祀っていたが、現在は豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)を祀る。(令和7年6月の遷宮で改定)
かつては海に浮かぶ島だった潮風に包まれた小さな社は、神々の残した祈りを今も見守っているようだ。さらに浜の南には、弓なりに美しい曲線を描く薗の長浜が続く。ここは国引き神話に登場する「国を引く綱」として描かれた場所。出雲の地形が神話と重なり合っていることがわかる。

神々を迎える聖なる浜
毎年、旧暦10月10日。全国の神々が出雲へ集う「神在月」。稲佐の浜では「神迎(かみむかえ)神事」が行われ、八百万の神々が海の彼方からこの地へと迎えられる。その夜、浜辺は御神火が焚かれ厳かな雰囲気に包まれる。そして神々は「神迎えの道」を通り出雲大社へと向かっていく。

出雲大社へ収める砂
出雲大社を訪れる前に、まずは稲佐の浜を訪れるのには理由がある。ここの砂を少しいただき、出雲大社、本殿の後方にある素鵞社(そがのやしろ)で稲佐の浜の砂と交換でお砂をいただく習わしがある。家の四方に撒いたり、お守りとして持っているとご利益があるという。

国譲りは古代の海戦だったのか?
稲佐の浜は出雲大社の西方の海岸。『古事記』において、タケミカヅチはなぜ、東の大和(奈良)方面からではなく、西の海岸であるこの浜に来たのだろう?そう考えると、一つの仮説が浮かびあがる。古事記では出雲制圧神話において武甕槌神と一緒に天の鳥船(アメノトリフネ)を遣わせたとある。
征服者たちは、海流に乗って北九州方面からやってきたのではないか。神話に語られる「天の鳥船(アメノトリフネ)」とは、組織化された強大な「軍船団」の象徴的なものではないか、と。
出雲帝国の終焉
日本書紀では高天原の神々は、まず経津主命(フツヌシノカミ)を選んだが武甕槌神(タケミカヅチ)は不服として私がと進言を申し上げられた。そこで高皇産霊神(タカミムスヒノミコト)は武甕槌神を経津主神にそえて、葦原中国を平定するために派遣された。とある。どちらの神も刀剣を表す武神である。
武甕槌神の襲来の時、事代主命は美保関で釣りをしていたと記されている。これも海人族の比喩に思われなくもない。古来から海運の要衝だった美保関には出雲の水軍があり、美保関から水軍を指揮し、稲佐の浜へ制海権を巡る古代の激しい海戦があったのかもしれない。
そして事代主命は船上で戦死したのではないか。事代主命が海で青柴垣(あおふしがき)に隠れたという描写は、船上での壮絶な最期、あるいは水葬の記憶を、オブラートに包んだのか。
弟の建御名方は武甕槌神に戦いを挑み力負けして洲羽(すわ)まで逃げてここから出ないことを条件に許された。今の諏訪大社である。
二人の御子神を倒された大国主命は
「我が住所(すみか)だけは、天つ神の御子が代々に日継ぎし、お住まいになる、ひときわ高くそびえて日に輝く天の大澱のごとくに、土の底なる巌根に届くまで宮柱をしっかりと掘り据え、高天の原にも届くほどに高々と氷木(ひぎ)を立てて治めてくだされば、われは、百には満たない八十の隅の、その一つの隅に籠もり鎮まって降りましょうぞ。」
と古事記では条件を一つだけ提示している。自らの住まいについてである。これが出雲大社の起源説話になるのだが、古事記には「治賜者」と書かれており造や作の文字は使われていない。おさむ(治)の意味は「然るべくととのえ、なおす」となり「つくる」とは意味が違う。大国主命は代々しっかりと修復し祀られることを望んだのか?通説どおり天つ神が出雲大社を大国主命のために建てたのか?
稲佐の浜は今、悲しみを湛えているかのように波が静かに寄せ、風はやさしくそよいでいる。穏やかな海の向こうに、かつて神々が語り合った時の流れを感じるようだ。敗れ去った者たちの無念と、歴史の波間に消えた真実に思いを馳せながら、出雲を巡る旅はここから始まる。
次回予告
第2回 出雲大社ーー神々が集う場所へ。神話が息づく社殿と、その壮大な建築の秘密をたどります。
